創業1949年山形で頑張るバドミントン・テニスのラケットショップ“ジャワスポーツ”社長ブログ/(株)ジャワ商会代表取締役小関和夫/1932年山形県鶴岡市生まれ


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全米オープンテニスを観戦して

全米オープンテニスを観戦して

2007年8月28日に開幕したニューヨークの夏の終わりの風物詩、USオープンを観戦。
アメリカならではの雰囲気の中、世界のトップスターたちのプレイを楽しむことができた。
ニューヨーク市郊外のフラッシングメドウで、毎年2週間の日程で開催されるが、
会場はUSナショナルテニスセンターで、主催は全米テニス協会。


(1) 杉山愛選手の試合を応援
全英・全豪・全仏そしてこの度の全米大会でも、必ず元気な杉山選手のプレイを応援できたが、日本人としてこんなに幸せなことはありません。四大大会に長いこと欠かさずに出場できていることは彼女が如何に素晴らしい選手であるかの証明でありましょう。

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(2) 杉山選手の戦績
因みに、杉山選手のキャリアを簡単にたどってみましょう。
四大大会への出場は1994年ウインブルドンから2009年ニューヨークまで実に
シングルスで62回連続になるのです。これは世界記録で、ギネスブックに記録されていて今も破られていません。
この間の主な戦績は下記の通りです。
  シングルス ベスト8 2回  (全豪・全英)
  ダブルス  優勝   3回  (’00全米・’03全仏・‘03全英)
        準優勝  7回
なんと素晴らしい戦績ではありませんか・・・
しかし残念なことに、皆様ご存じのように2年前の2009年9月9日に東レPPオープン大会でホントに惜しまれながら引退されたのです。引退セレモニーでは、多くの外国選手が残念がって涙を流したことが報道されました。
これほど長年世界の舞台で活躍できた理由としては、彼女のテニスへの情熱と家族のサポートが大きかったと言われる。
マネージャー兼コーチの母親芙美子さんとの二人三脚を挙げられましょう。私が応援できた四大大会では、勝っても負けても同伴でインタビューを受けている姿を拝見しています。
そして彼女の明るい性格と真面目な取り組みは、ほかの選手やコーチから尊敬されていたと言われているが、ダブルス3度のVはパートナーを思いやる杉山選手の面目躍如と言うべきでありましょう。
1995年のウインブルドンでベスト8に輝いた松岡修造氏は、杉山選手について次のようなコメントをしています。

①ダブルスで鍛えたフットワークの良さとスタミナの高さ
②怪我をしないように、アフターケアとトレーニングの継続
③国際性: 英語が堪能て、自分たちのチームにこもることなく、ツアーの中に友人をつくり、他の選手との交流ができる選手。
「彼女はもっと高いところに行けたと思う。ダブルスの3度のVはもちろん、シングルスでも2度もベスト8というのはたいしたものだと評価される。」

(3)エナンのプレイ
第一シードのジュスティーヌ・エナン(ベルギー)の初戦を見ることができたが、まさに絶好調!
比較的小柄な体から,跳び上がって打つ独特の片手討ちバックハンドストロークと、俊敏なフットワーク。真っ赤なシャツに白いキャップとスコートが美しいハードコートに躍動する姿は、まさに見事・・・
特に本大会では初戦から決勝まで全試合ストレート勝ちで完全Vを成し遂げているのです。
因みに、決勝戦はスベトラーナ・クズネツワ(ロシア)と戦い、6-1,6-3で快勝しています。
尚、全試合ストレート勝ちの完全試合を遂げたのは、2002年のセリーナ・ウイリアムズ以来の記録です。

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(4) 9,11テロの跡地
2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した航空機を使った全世界に衝撃を与えたテロ事件。全米テニスの会場にほど近くにあった、世界貿易センターの南北のツインタワービルは今はなく、跡地に進む再開発のための工事現場をカメラに収めるのが精いっぱい。
改めてテロへの怒りがこみあげ…そして多くの犠牲者へのご冥福を心から祈念させて頂きました。そして平和の有難さをかみしめながら、こうしてテニスの大会を観戦できる幸せを思った次第であります。
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(5) おわりに・・・
2000年6月に庄司県テニス協会会長と観戦できた全英ウインブルドン大会から、お互い仕事もあり、会合の日程の都合等もあって、8年目にしてようやくニューヨークに辿り着き、念願のグランドスラム観戦を達成することができました。
庄司氏のテニスへの情熱が私を四大大会まで連れてきて下さいました。
各大会の特徴は際立っており、それぞれの開催地の、そしてその民族性を如実に示していたと思います。
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                       国連ビル前にて


ウインブルドンの伝統と格式、メルボルンとパリの会場の美しい広い公園の中の緑あふれる環境、それらに比してニューヨークのアーサーアッシュスタジアムは、23000人も収容できる大国アメリカらしい設計。
ついでにエンジョイできた観光もそれぞれ興味深く、また現地人との会話も楽しむことができました。
庄司氏はウインブルドンだけはもう一度訪ねたいと言われているので、私もご一緒できるのかな…と思案している昨今です。
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# by javasports | 2011-07-26 11:41 | テニス四大大会

全仏テニス大会を観戦して

全仏テニス大会を観戦して

(1) ブローニュの森
2005年5月23日に開会したフレンチオープンテニス大会を観戦。
パリの西側に位置する有名なブローニュの森の中にあるローランギャロスのテニスコートは、地下鉄メトロのボルト・ドトゥイュ駅から徒歩10分くらい。
10時開門の1時間前にはすごい行列ができており、ウインブルドンと似たような状況と雰囲気。青空に浮かぶ雲から、試合中に2度ほど雨がぱらついたのも、まさにロンドンの気まぐれな空と酷似。気温は山形とほぼ同じで、朝夕は涼しく日中はかなり暑い。周囲はブローニュの森の緑が美しく閑静。
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(2) コートに入って最初に目についたのが、主審・副審の制服の色。全英、全豪のそれとは全く異なり、黄土色にグレイが混じった一見地味な大人の色。                                       「シック」というフランス語はこういうことを指しているのかと思い知らされた気がした。

(3) 赤土のクレーコート
テニスコートは赤土クレーで、グランドスラムで唯一のクレーコート。見た目は赤くてきれいですが、球脚はクレー特有でスロー。選手が時々靴につく土をラケットではたく姿が見られた。土のコートなので、きわどい判定の時には、主審が審判台から降りてボールの落ちた跡を確認していたが、フェアで気持ちいい。コートの周辺には売店がずらり。スポーツ関連のものを挙げると、
Yonex, Puma,Wilson, Dunlop, Slazenger, Head, Penn,Lotto, Babolat, Volke,V-sports

(4) カウントもフランス語
大会会場の掲示も、プログラムも全てフランス語のみで英語の併記はなく,試合のカウントもフランス語であり、フランス人らしい頑固なプライドが偲ばれる。
しかし、世界から観衆が押し掛けているわけですから、そろそろ便宜を図る時期ではないでしょうか。
メインスポンサーはフランス第一の銀行のPARIBAS。コートの壁にも、ボールボーイの背面にも大きくネーム。
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ボ―ルにはROLAND GAROSのネームがくっきり。

(5) ローランギャロスの由来
全仏大会はローランギャロスの大会といわれる。その名前の由来が知りたくて、数人の方に質問したが誰も知らない。制服を着た大会役員に尋ねたところ、大会の幹部らしい方のところに連れていき聞いてくれた。でもパイロットでテニスプレイヤーの名前というだけで詳細は不明。
後日観光ガイドに尋ねたところ。親切にご主人に電話をしていただきようやく分かった次第。ローランギャロスは陸軍に入隊し、除隊後にバイロットとなり第一次世界大戦で活躍。30歳の若さで地中海で墜落死。彼は素晴らしいスポーツマンであり、スポーツ協会を作った最初の人。友人が彼の死を悼み、彼の名を後世に残そうとブローニュの森にスポーツ施設を作って彼の名をつけたという。それが今や、全世界にその名が喧伝されているのです。

(6) 日本選手の戦い
大会初戦に第3コートで19シードの浅越選手が登場し、ブルガリアの選手と対戦。立ち上がり調子が出ずに苦戦をするも7-5で取り、2セット目は実力通り6-2で楽勝。
二日目の第1試合、同じく第3コートに23シードの杉山選手が登場してスペインの選手にフルセットの末(3-6,6-4,2-6)に敗れる。彼女はやはりダブルスの名手なのでしょうか。
敗戦後、席に戻った杉山選手は、最前列の日本人ギャルにサインを求められ、打ちひしがれているにもかかわらずこれに快く対応している姿に感動。しかしこんな時にサインをねだるのは如何なものでしょうか・・・
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(7) アガシの敗戦
二日目にセンターコートで、世界的に人気のある米国のアンドレ・アガシ選手が、フィンランドのニイミネン選手にまさかの敗戦をしたのです。
最近10代選手が活躍するテニスの世界で、最年長35歳のアガシは、軽快なフットワークと正確なショット、巧みな試合運び等で永年の間世界のテニスファンを魅了してきており、今年もまた彼の華麗なプレイが見られると期待していたのに、最初からいつものアガシとは違うように見えていた。1セットを5-7で落とした時、観覧席には異様な空気が流れるのが感じられた。2セット目はさすがに6-4で取ったものの、3セット目はわが目を疑うようなプレイ。でもさすがにタイブレークの末8-6で取ったが,彼の動きはもうここまで。4,5セットはボールを追いかけることは出来ず、センターコートを埋めた満員の観衆の再三のアガシがんばれの拍手にもかかわらず1-6,0-6で敗れてしまったのです。

ローランギャロスには魔物が住むと言われていたが、今まさに実感した次第。バッグを肩にコートを去ろうとしている彼の表情は苦痛にゆがんでいたものの、万雷の拍手に2度3度と手を振って立ち去る姿には、見ていた私も拍手を送りながら涙をこらえるのが精いっぱいであった。

翌朝のパリの新聞には、アガシの試合について大きく写真入りで報道されていた。ここ2年間位腰を痛めており、2月にはコーチゾンの注射を打って痛みを鎮め、直前のローマ大会では準決勝まで頑張れたので、ローランギャロスでは注射を打たなくても大丈夫だろうと思っていたこと。それが3セット目から激痛に襲われて試合どころではなかったとのこと。「痛みでサーブも出来なかった。立っていることも…座ることさえできなかった・・・」
注射を打ちながら試合をする年齢になったのかと思ったり、親友のピート・サンプラスのように、そろそろ引退の話がささやかれる頃に近ずいたのを感じていると報じられた。
しかし、再起してもう一度あの華麗なプレイを見せて欲しいと期待するのは、私だけではないでしょう。
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(8) パリの街づくり
パリの街はドイツのミュンヘンと同じで、建物はすべて5~6階建てになっており、1Fは店舗、2Fは事務所、3Fは倉庫、4F以上が住宅で、日本のような庭付き1戸建てはシラク大統領が住む大統領府だけである。アジアの特徴(?)である窓辺を飾る洗濯物は全く見られない。これはカナダと同じようにパリ市民が条例を作って、人目につくところには洗濯物を干さないことを決定していたからである。

(9) 路上駐車
パリの道路は石畳が多く、道幅もあまり広くない。そして道路の両側に車を縦列に駐車しているのです。建物が隙間なく林立していることもあって、駐車スペースがなく、路上駐車となっているのです。しかし驚いたことに、車と車の間があまりなく、どのように割り込んだり出したりするのかと思いきや、お互いの車のバンパーの前と後ろにどしんどしんとぶっつけながら行うのです。日本の場合を思い、国民性の違いを痛感させられた次第です。
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# by javasports | 2011-07-07 15:35 | テニス四大大会

全豪オープンテニスを観戦して

(1) 真冬から真夏の国へ
2003年(平成15年)1月13日に開幕した全豪オープンテニスを観戦する為に、真冬の山形から成田を経由して,真夏のメルボルンに直行。

とにかく暑いのが全豪テニスですが、幸いなことにグランドスラムで唯一センターコートに屋根が取り付けられている。雨の時は勿論、気温が38℃以上になると閉じられることになっていて、ウイリアムズ姉妹の決勝戦では、44℃にもなって閉じられたとの報道があった。                                    昨年の決勝戦でヒンギスが熱射病にかかり、意識が朦朧としていたのは記憶に新しいところである。
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(2) セリーナ初戦に薄氷の勝利
セリーナ・ウイリアムスはメジャー4連勝をめざして臨んだ全豪オープンでしたが、初戦に思いもしない接戦を強いられた。

女王らしくないプレイで、世界56位にランクのフランスのエミリー・ロワに3-6、
7-6(7-5)、7-5のスコアで逆転勝ちをしたのです。1セットを落とし、2セット目もリードされて危ない展開に、満員の観衆が息を潜め、暑い観覧席に一瞬冷気が走る異様な雰囲気に包まれた。
ウイニングショットのガッツポーズが印象的でしたが、翌朝の地元の新聞の一面に載った彼女の形相が、セリーナ自身どれほど苦しんでの勝ちであつたかを如実に示しているものであった。

(3)円熟したアガシのプレイ
人気抜群のアガシ。1~2戦を観たが、最近のヤングパワーの進出目覚ましい中で、32歳の年を感じさせない、円熟したショット、ストローク、軽快なフットワークは全観衆を魅了してやまないものでした。        地元期待のヒューイットが、早々に姿を消したこともあり、予想通りの優勝といえよう。
彼は奥さんのシュテフィに、彼とのミックスダブルスに出るよう説得しているとのこと。実現したらシュテフィのあの素晴らしいプレイを再び観られるわけですし、是非アガシ夫妻コンビによる絶妙の試合を実現してほしいものである。

(4) シード選手の受難
期待されたカプリアティ(2002全豪シングルス優勝),クルニコワがそれぞれ初戦で敗退。映画女優並みの美貌と華麗なプレイで人気抜群のクルニコワの不調ぶりは観客席もしゅんとするものでした。彼女はおそらく、忙しすぎてトレーニングも出来ず、体調も整えずに出場してしまったのではあるまいか。最近ヤングとシード選手との力の差があまりなくなったと言われているが、彼女のプレイを観て実感すると共に,是非再起を図りもう一度あのプレイを見せてほしいものである。

(5)ナブラチロワのインタビュー記事
地元の新聞に、かつてテニスの女王ナブラチロワのインタビュー記事が載っていたので、その要旨を紹介する。
①プロの選手にとって、最近の試合数があまりにも多すぎて、選手の寿命を縮めてしまう恐れがある。
②全豪オープンのコートはハードコートですが、選手のけがに結びつきやすいので、もっとクレーのコートを多くすべきである。最近ヤング選手が多く出てきているが、10代の成長期の選手には特に良くない。
③最近のテニスラケットの性能があまりにも良過ぎるので,何らかの制限を設けるべきである。                                    
野球では、金属バットの使用に制限があるわけですが、ラケットについてのこの発言に今後どのような反応があるのか注目したいものである。           

(6) ROD LAVER ARENA
テニスコートは緑濃いメルボルン公園の一郭にある。かつてオリンピックの会場であった美しい公園には大きなヤラ川が流れており、ボートの練習風景が眼前にひろがっている。
テニスコートには、豪州が生んだ世界的なテニスプレイヤーであるロッド・レーバーの名を冠し、センターコート以外のコートの観覧席の上部にはいくつかの屋根付きの座席が設けてあって暑さを凌げるようになっている。
ウインブルドンでは”一日の中に四季がある“ことを実感したが、ここでも同じことが言われているのです、朝夕の気温の差が二倍もあり、湿気がないので、直射日光を浴びなければ暑さを感じず、朝夕は寒さを覚えるほどである。
雨も降ったりやんだりで、市内で大雨の時に、6Km先では晴れていることもあるという。
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ロッド・レーバーアリーナの前で

(7) メルボルンの町
メルボルンはビクトリア州の州都で、人口は約320万。豪州の中でも英国色の強いところで、まさにミニロンドンといった感じの風情が漂う町だが、一方移民の町として世界各地から集まった人たちが、独特の文化を展開している。市街には450もの公園が点在し、ガーデンシティという別名を持つなど豊かな緑に溢れている。また文化芸術の発展に力を入れており、博物館や美術館など文化施設の数も多いところです。
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コートのあるメルボルン公園と、ボートの練習も眺められるヤラ川の美しい風景
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メルボルン公園にて。左端:庄司会長、中央:渡辺山形市協会会長
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# by javasports | 2011-06-28 11:31 | テニス四大大会

≪ウインブルドン印象記≫

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平成12年6月に山形県テニス協会会長の庄司秀雄氏に誘われて、全英テニスの観戦のためロンドンのウインブルドンに出かけましたが、その後平成19年までに四大大会(全豪・全仏・全米)観戦のグランドスラムを達成できました。
思えば、貴重な経験なので、そのつれづれを記してみたいと思います。



(1)皇太后100歳の誕生日
ホテルで読んだ6月28日のデイリーテレグラフ朝刊の一面に、エリザベス女王の母君の誕生パーティーの写真(8月4日が誕生日、6月27日にロンドン市長が主催)。
100歳におなりの皇太后のエレガントなその美しさ!!先ず以て、おめでとうございます。

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(2)地下鉄
ウインブルドン駅のふたつ手前のサウスフィールド駅下車。ホームがグリーンと白線のテニスコートそのもの。車内で老紳士がセンターコートのチケットをかざしての自慢話。国を挙げてのお祭りの感じ。

(3)当日券への行列と記念シール                         
駅からコートまで約2キロの片側道路いっぱい長いながい人の行列。大会期間中いつも見
られる光景であるという。

14番コートで杉山対吉田の試合観戦の合間に、隣に座ったベルギーから来られた二人のご婦人と歓談。 彼女らは今朝2時間以上並んでグラウンドチケット(自由席券)を求めたとのこと。 全英大会のユニフォームを着た整理員の暖かいもてなしに、長時間も苦になるどころか楽しかった、明日も早起きして並びたいという。 聞けば、情報・新聞・ジュース・ボトルの水を無料でサービスされ、その時に貰ったというきれいなシール”2000年のウインブルドン選手権に並びました"を私にプレゼント。これぞ最高の記念品!
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杉山選手の美しいフォーム


(4)センターコート
No.1コートのチケットは予め持っていたが、庄司会長のつてでセンターコートチケットを一枚入手。

交代でアガシの初戦を観戦。生で見る彼の敏捷さ、人気に改めて驚嘆。 夢にまで見たセンターコートに感無量。
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センターコート前で。右端が庄司会長です。
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(5)公平な応援
地元英国選手の試合での応援は熱狂的。ウエーブもありました。                          でもその拍手は敵味方なく公平。さすが紳士の国。
(6)試合開始時刻
センターコート、No.1コートでの試合開始時刻が午後2時、第3試合の開始が6時前後で終了が9時前後(ロンドンは9時過ぎまで明るい)。家庭持ちの主婦は、夕刻になると食事の準備もあって帰らざるを得ずコートを出られる。帰り際にチケットを置いて行ってほしいとチケットを回収する係が居り、そのそばにそのチケットを求めて行列ができているのです。                                                それらの主婦の「試合時刻を早めて欲しい、第3試合の好カードが見たい」という希望は、テレビ放映時間の関係でかなえられるのは難しいとか。
(7)一日の中に四季あり
ロンドンの紳士の傘を持つ姿とか、霧のロンドンという言葉の通り、ロンドンの天候は正に気紛れ。
陽がさして暑いなと思うのもつかの間、いつの間にか雲が出て涼しくなり、夕方には寒さを覚え、さっきまで晴れていたのににわか雨が来るというのを体験。                                       さすが各コートには若人たちが待機していて、コートの脇に用意してあった覆いをさっとコートにカバー。   少し待っていると雨がやんで試合再開。                                           芝のコートなので、それでなくても滑りやすいので、雨には細心の注意と周到な備え。

おかげでウインブルドンらしい素晴らしい大会の雰囲気を満喫することができました。
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# by javasports | 2011-06-07 14:15 | テニス四大大会

≪優勝旗の里帰り≫

昭和53年に私の息子(現ジャワスポーツの常務)が、山大付属中学3年の時に山形県中学総体バドミントン大会で団体優勝して、夜遅く我が家に優勝旗を持ち帰ったが、この旗は父が県中体連に20年ほど前に寄贈していたものとわかり、「優勝旗が里帰りした」と言って涙を流して喜んでいた父の姿が忘れられませ火。

父にすれば、親から子、子から孫へと三代続けたバドミントンへの熱い思いが蘇り、感無量のものがあったものと思います。

ちなみに、息子はこの大会で個人シングルスとダブルスでも優勝していわゆる三冠王となり、愛知県体育館で開催された第8回全国中学生大会に出場しています。

尚、3年後には山形東高校3年の時、県大会で団体優勝し(東高校では初めて)、個人戦でもシングルスで優勝、ダブルスで準優勝して、神奈川県で開催されたインターハイに出場しました。

大学では、早稲田大学のバドミントン部で、関東一部リーグや東日本大会等で活躍しています。

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里帰りした優勝旗とカップ,賞状を前に少し緊張している息子
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全中大会出場記念に名古屋城をバックに息子と私
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# by javasports | 2011-05-20 16:33 | ジャワスポーツの歴史

≪父娘で国体出場≫

≪父娘で国体出場≫
昭和27年第7回国民体育大会で仙台市の東北大学体育館で開催されたバドミントン競技に

父と娘(現ジャワスポーツの専務) が出場したことが山形新聞に大きく掲載され話題になりました。 

 父は一般の部、娘は山形東高校の生徒で少女の部でプレイしました。                                   
バドミントン競技は国体での第一回目の競技で、正式種目ではなくオブザーバーとしての種目でしたが、

ここでのプレイが全国から注目を浴び、その後大きく発展するきっかけの大会であり、

妻は今でも懐かしく思い出しているようです。

ちなみに、第7回国体秋季大会は東北3県(福島・宮城・山形)52会場で熱戦が展開され、開会式は福島県で

天皇・皇后両陛下のご参列の下に行われ、宮城、山形では開始式が行われています。


両陛下は、開会式後、3日間にわたって、馬術・フェンシング(福島)、卓球・陸上競技(宮城)、

ボクシング・体操(山形)の各会場をお回りになられました。

尚、秩父宮妃殿下、高松宮殿下も3県下の会場を回られて、親しく選手を激励されたと報じられています。

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# by javasports | 2011-05-07 12:28 | ジャワスポーツの歴史

山形にバドミントンを紹介

≪山形にバドミントンを紹介≫
昭和20年父は日本が戦争に敗れたために,営々として築き上げた全財産を置き去りにして、裸同然の姿で故郷山形に帰りました。
“芸は身を助く”といわれるが、身につけたテニスとバドミントンを活かしてジャワスポーツを興して第2の人生をスタートしました。

昭和22年に山形第四小学校の裏にあった親戚の川島氏の畑を借りてバドミントン用の屋外コートを造り、山形県にはじめてバドミントン競技を紹介しました。
父はジャワでも屋外コートに慣れていましたが、テニスと違い風に悩まされながらも皆夢中で励んでいたそうです。

このコートを中心に、山形東高や山形商業高校のOB等が集まり愛好会が結成され、一人二人と同好の士を増やしていったものです。

郡部の公民館や学校での普及講習会を各地で開催しました。サーブ権がある時だけポイントができるカウントの取り方が、なかなか飲みこんでもらえなかったことがありました。

父はその後、山形県バドミントン協会の初代理事長としてバドミントン王国山形の建設に努めると共に、シャトルコックやバドラケットの製造と販売などでバドミントンへの強い愛情を持ち続けての生涯を送りました。

多くの方々にバドミントンのジャワ、ジャワのバドミントンと呼ばれて親しまれていたものです。

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県バドミントン協会の会長時代の父
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畠のコートに集った初めてのメンバーたち。男の人の裸足?...戦後の窮乏時代をしのべる貴重な写真です。
前列左が、現ジャワスポーツ専務の十代の頃の容姿.....
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# by javasports | 2011-04-20 15:59 | ジャワスポーツの歴史

東日本巨大地震のお見舞い

お顧客様各位

この度の東日本巨大地震で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

また被災地の皆様のご無事と、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

山形もひどい揺れと停電があり、現在もガソリンや灯油の不足等による混乱がつづいて

いますが、当社はお陰様で軽微な被害で済み、本日(3/22)よりほぼ通常の業務に

復帰することができました。

多くの方々より真心あふるるお見舞いの電話等を頂きましたことに有難く御礼申し上げます。

                                    株式会社ジャワ商会
                                      代表取締役 小 関 和 夫
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# by javasports | 2011-03-22 16:17 | コラム

牛乳風呂で歓待

日本のテニスのレベルが高く評価され、毎年暑中休暇を利用して、日本から学生選手2名
を派遣してもらい、スラバヤ日本人テニスクラブをはじめ、スマラン,バタビヤ、バンドンの各都市でジャワの一流選手相手に模範試合をやり、コーチも受けて内外から大好評であったし、ジャワテニス界は老いも若きもテニスブームでした。

日本人会の邦人有力商社や外人宅にもテニスコートの設備があり、
仕事の合間にテニスでびっしょり汗をかいて、冷たいビールを飲んだ良い気分や、サッデー(焼き鳥等)や支那料理をふんだんに食べたあの天界の気分は今なお思い出の種である。

父は日本から呼んだデビスカップの選手や学生選手を自宅に招いて、牛乳風呂とすき焼での歓待はすこぶる好評で、すごく喜ばれたものです。

また、日本人婦人会が招待した日本の人気作家、吉屋信子女史にも父自慢の牛乳風呂を大いに喜んで頂いたことも忘れられない思い出であると言っていました。
  
思い出と言えば、父はアルコールが入った時などには、決まってジャワ民謡の"ブンガワンソロ"をうたっていたものです。
ジャワの原語ですから唄の意味はわかりませんが、独特の節回しとしわがれた声が醸し出す雰囲気は、父の過ぎし日の数々の喜怒哀楽を思いやられて、今でも耳を離れることがありません。


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日本から招待した学生のテニス選手。 昔懐かしいオールウッドのラケットをご覧下さい。

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作家 吉屋信子女史(前列中央)との記念写真。
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# by javasports | 2011-03-19 17:30 | ジャワスポーツの歴史

テニスとバドミントン

父の始めの居住地スマランのスポーツ界はテニスが盛んで、昭和6年に日本人会庭球クラブが日本からデビスカップ選手の原田、布井の両選手を招待し、ジャワの一流選手との交流試合をしたが、見事なプレイで日本選手が勝利した。特に布井選手の鮮やかなバックストロークは外人にも大評判でした。             その時父も相手をしてもらったものの、1ゲームもとることができませんでした。

その後移ったスラバヤは人口約50万の商業中心地で、在留邦人1000人が住んでいた繁華な都会でした。そこの日本人会には、りっぱな集会所と小学校、7面のテニスコートがあり、テニスファンの父は毎日のようにテニスに出かけましたが、花の顧客には外人が多かったので、極力テニスを通して親善外交に努めたものです。

父のテニスの腕前は、スマランではA級で大会でも2度優勝したことがありましたが、スラバヤではB級でA級に上がるのに大変苦労したものです。

スラバヤでは、バドミントンも昭和10年頃から一般に普及し、父も熱心にやりました。
その後レベルが向上し、ジャワでの人気スポーツとなり、バドミントンはジャワの国技であるといわれるようになったのです。

ラケットを持って街を歩いていると羨望の目で見られたものです。

このバドミントンとの出会いが、敗戦で日本に帰国後に父の人生の再出発に関わることになろうとは、当時はもちろん夢にも思っていませんでした。


ジャワは常夏の国ですから、日中は大変暑いので、昼休みの時間を2~3時間とり、夕刻から開店するするしきたりになっていたとのこと。

雨もスコールと言って短時間強く降り一日中降ることはなかったので、父は長い昼休み時間を利用してほとんど毎日テニスとバドミントンに熱中したそうです。
おかげで病気知らずで過ごせたとスポーツの効用を説いていたものです。





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テニスの大会で優勝した時の父。当時のラケットとテニスの服装をごらんください。


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友人の送別のためのバドミントンの試合。前列右端が母です。
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# by javasports | 2011-03-08 16:25 | ジャワスポーツの歴史